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【アラベスク】  第1章 春の嵐



第2節 白い罠 [6]




 母が帰宅したのは深夜二時頃だった。聡の姿を見ると発狂したように喜んだ。
 元来色男好きな母は、美形の山脇に対しても好印象を持ったらしく、三人はすぐに打ち解けた。愛想をつかした美鶴は早々に自室へ引っ込んだが、寝付けなかった。
 隣がうるさいということもあったし、二人が母に覚せい剤のことを話すのではないかという心配もあった。母に余計な心配をさせたくないからという理由で口止めをしてはおいたが、だからと言って本当に話さないとは限らない。
 正直なところ、余計(・・)()心配(・・)をさせたくないというよりも、余計(・・)()詮索(・・)をされるかもしれないという不安。
 美鶴の母は好奇心旺盛だ。孤独を癒すために店を訪れる常連客からは好まれても、孤独を好む娘にとっては(うと)ましい。

 そう、美鶴は独りが好きだ。

 学校から帰って母が帰宅するまでの独りの時間。その時間が美鶴にとっての幸せ。何も考えず、何も意識する必要はない。早々に布団に潜り込む。
 眠くなくても、横になるといつの間にか眠っていることが多い。
 寝ているのか起きているのかわからない。微睡(まどろ)みの中を漂っている感覚。この上なく心地よい。全身の力が抜け、すべてからの開放感。
 大概は起きるとすっきりしている。なんだかとても楽しい気分を味わえたような気がして、それから教科書へ向かうと、勉強も(はかど)る。
 だから本当は授業が終わったらすぐにでも家へ帰りたい。だが、家に自分が居ると、たとえわずかでも光熱費がかかる。だから美鶴は、ギリギリまであの駅舎で過ごしてから帰宅する。バイトは禁止されているのでできない。隠れてやっても、すぐにバレるだろう。なにせ美鶴は、監視されているのだから。
 最初は学校の図書室か市の図書館で過ごしていた。だが、学校の図書室では常に他の生徒の視線にさらされる。いくら無視しても、一度絡んできた同級生は、なかなか離れてはくれない。
 一方、市の図書館は自宅とは方向がずれている。その為、定期券では移動できない。交通費のムダだ。
 滅多に人に感謝することもない美鶴だが、あの駅舎の管理を任せてくれた霞流(かすばた)には、さすがにありがたいと思った。
 少しでも節約して学費を捻出しなければ、学校へは通えない。制服や教科書なども公立と比べれば割高だし、進学校なので校外模試は強制的だ。もしも受験料が払えなくて試験を受けなかったら、きっとあの浜島が見逃さないだろう。
 教頭の浜島にとって美鶴は、いわば目の上のたんこぶ。良家の子女が通う中で美鶴のような貧乏人は、学校のイメージを損ねる以外の何者でもない。成績が学年一番でなければ何か言いがかりをつけられて、とっくの昔に退学させられているだろう。体裁というものを(こと)のほか重視する浜島は、美鶴を退学させる良い口実はないものかと、始終彼女の周囲を監視している。

 美鶴は、布団の中で息を呑んだ。

 掛け布団を頭からかぶり、目を見開いても暗闇が広がるだけ。まだ少し湿っている髪からシャンプーの香りが漂い、閉鎖的な布団の中で出口を見つけようとしている。
 その闇の中に、浜島の眼鏡がキラリと光った。同時に山脇の言葉が思い出される。
 それは、母が帰宅する一時間ほど前のことだろうか?



「スカートの汚れってさ、やっぱあの男から付いたんだよな?」
 今日何杯目のコーヒーだろうか? 三人で駅前まで歩き、ファーストフード店で夕食を済ませた。二人だけで食べてこいと言ったが、どうしても受け入れてもらえなかった。
 こんな下町に唐渓(からたに)の生徒が足を運ぶはずもないが、やはり誰が見ているかわからない。二人の追っかけ女子生徒に目撃でもされたなら、明日から何をされるやら。騒ぐのは勝手だが、絡まれたら厄介だ。
 家へ戻る途次(みちすがら)、いろいろ言葉を並べて二人を追い返そうと努力はした。だが、到底無理だった。美鶴もさすがに諦めている。
「あの男、クスリやってるってコトかな?」
「かもね」
「美鶴を襲ったときもやってたのかな?」
「かもね」
「―――なんで美鶴を襲ったんだろ?」
 二人は答えない。それは、この数時間のうちに何度も取り上げられた議題。だが、美鶴には心当たりはない。理由なんて、わからない。
「そもそも覚せい剤をやってるような人の行動を理解するなんて不可能でしょ。考えもなしに動いてるんじゃない? 相手が私でなくてもよかったのかも」
「それはそうかもしれないけどさぁ……」
「かもしれないじゃなくて、そうなのよ」
秦鏡(しんきょう)……なんてモノがあったら、いいのにね」
 ぼんやりとした視線でつぶやいてしまい、山脇本人が苦笑した。我ながらバカな言葉を口にしたとでも思える笑み。美鶴も、呆れたように視線を流す。
「シンキョウ? 心境?」
 意味のわからなかった聡が、キョトンと目を丸くする。
「秦の鏡と書くのさ」
 床に散乱する広告の一枚を取り上げ、裏に鉛筆で書いてみせる。
「昔、秦の始皇帝が持ってたって言われる鏡。なんというか…… 人の心を映し出すのさ」
山脇の説明は少し間違いがあるが、聡にも理解しやすいように説明するのなら、別にこの程度で構わないだろう。
「あったとして、どうするのよ?」
「心当たりのある人間にでも当ててみるのさ」
「心当たりなんて、ないって言ってるでしょうっ!」
 イライラしたような美鶴の言葉にも、二人は全く納得していない。そんな二人の態度に、美鶴の苛立ちは増す。
「いい加減にしてよね! 何が気に入らないってのよ!」
「気に入らないってワケじゃなくて、気になるんだよ。一日に二回も覚せい剤に出会うなんて―――」
「普通あり得ねーって。最近は普通の人間でも手に入れられるって言うけど、誰もかれもが持ってるってワケじゃねーんだしよ」
「同じなのかも」
 またしてもつぶやく山脇の瞳は、宙を見つめている。今度は、笑わない。
「は?」
「キーホルダーを落としていった人物と、大迫さんを襲った人物は、同じなのかもしれない」
 それは、美鶴の頭にある。きっと聡もそう思っているだろう。
 だが山脇は、それがなんだという表情の二人に向かって、円らな瞳を大きくする。
「そうだよ。それが気になってたんだ」
 乗り出してくる山脇に、美鶴は身を引いた。だが山脇は気にしない。
「君を襲った人物は、昼間、あの駅舎に居たんだ。そこでキーホルダーを落としたのかもしれない。あそこで……、君を待ってたのかもしれない」
「何で?」
「君を襲うため……かな?」







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